話し言葉の規範と逸脱

前回の「言葉とコミュニケーション」に引き続き、あずといんことの対談第2弾です。今回は、主にいんこが吃音の当事者と言う立場から、「話し言葉の規範と逸脱」というテーマについて、語りました。

あず  いんこさんは、普段、何されているんですか。
いんこ 僕は今、博士課程の1年生なんですけど、吃音の当事者ということで、『吃音の当事者研究』をテーマに博士論文を書いています。「吃音」というのは、言葉が流暢に出なくて、つかえてしまうというものです。「たたたたたたまご」とか、「たーまご」とか、「・・・たまご」みたいに、最初の音がつかえて、声を出すのが難しい。専門的には、言語障害とか発達障害の一つに分類されていますね。その当事者と言うことで、吃音の当事者研究をやっています。
あず  演劇が趣味と言っていましたが、演劇は、東大のサークルでやっていたんですか。
いんこ いえ、僕、演劇を始めたのは大学3年生くらいのときなんです。吃音で本格的に悩み始めた頃がその頃だったんですが、竹内敏晴さんの『ことばが劈かれるとき』という本を読んで、吃音の問題と向き合うために、演劇を始めました。インターネットで検索をして、都内でやっている、色んな演劇のワークショップに、こっそり、大学帰りに参加し始めました。それがとにかく楽しくて。そこで知り合った人たちとの縁で、一度、渋谷のライブハウスみたいな場所で、舞台に立つ機会がありました。それが、大学4年生くらいのときですかね。
あず  そうなんですね。
いんこ でも、あんまり、うまくできなかったんですよ。初舞台。「からだをその場でひらいて、相手と深いレベルでコミュニケーションする」っていうことが、とっても難しかったんです。その場で演じる、というか、その場で生きる、というか。からだをひらいて、相手と交わる、ということがとても難しくて。僕の場合、吃音と何かの形で結びついている恐怖のようなものとも関係があったかもしれませんが、どうしても、自分の中で見につけた「型」みたいなものを作ってしまうんですね。
でも、そういうのって、相手役の人には瞬時に響くんです。「この人は、私とこの場で、深いレベルで、一緒にコミュニケーションしてくれない」みたいに。本番が終わると、相手役の女性に、そっぽを向かれてしまいました。それがとても、辛かったですね。
その時に、とても悩みました。「このやり方も、僕の世界や他者との関わり方じゃないか」みたいに考えようともするんですが、そう開き直ることもできなかったんですね。吃音と付き合う上で、僕が自然と身に着けてしまった身体の「型」を「演じる」ことは、僕が人と、なんとか、とりあえず話をするために、必要だったものではあると思うんですが、その「型」のために、相手のことを考えるのがおろそかになってしまったり、相手と深いレベルで話しかけたりすることが難しくなっている面が確かにある。そのことを、僕は演劇を通じて、再確認しました。でも、あまりにも習慣化され、自分の身体に刻み込まれてしまった、「他者との関わり方」を、僕は、否定することもできなかったんです。今思えば、本当に、自意識過剰で、「こじらせていた」と思います。
そんな風にぐるぐる考えていたんですが、答えが出なくて。そんなときに、吃音を持つ人たちの集まりに参加しました。なんというか、とってもうれしかったんですね。『つながりの作法』(綾屋・熊谷)の第2世代じゃないですが、「やっと、仲間に会えた!」みたいに。今、吃音の研究をしている最初のきっかけは、この時の経験が、大きいと思います。
あず  そうなんですね。舞台に立つとうまくいかない部分もありますがその分沢山のことが経験できて、得るものが多いですよね。私もバレエで舞台に立つことが多いのでよくわかります。
いんこ 吃音って、本当に、いろんな文脈で語られているんですね。文学や演劇の題材にもたくさんされていますし、色々な思想家が、いろんな論考中で批評の対象にもしています。ドゥルーズなんか、本当に好き勝手に吃音について語っています。『みんなの当事者研究』の中で、「内側からの吃音」と「外側からの吃音」を区別することについて書きましたが、下手をしたら、吃音については、当事者による「内側からの言葉」よりも、「外側からの言葉」の方が、豊かかもしれません。記号やメタファーとしての吃音の文化の蓄積が、かなり大きいのです。
その、「外側からの言葉」を当事者が内面化している面もあります。吃音の問題について考える上で、スティグマの問題は避けて通れませんが、「外側からの眼差しを内面化すること」によって、「等身大の吃音の経験」とのギャップの中で生じている「生きづらさ」は、大きいように感じます。
あず  外から強制された規範の内面化と、その規範に従えない、等身大の自分との、逸脱
の中で生まれる「こじらせ」ですね。
いんこ それから、話し言葉についての規範意識と、吃音者の生きづらさは、かなり連動しているような気がします。特に、吃音は、国や時代によって、語られ方が大きく変わるんですね。
たとえば、ドイツでは、吃音は、比較的古くから、障害認定がされていました。「吃音者は教師になることができない」などの欠格条項もあったくらいだそうです。
一方、日本の吃音者たちは、これまで、自分たちのことを「障害者だ」とは定義して来ませんでした。しかし、近年になって、日本の吃音の当事者団体『言友会』は、社会的支援を得るために、吃音を障害の一つとして、語り始めました。障害として語らないと、支援の対象にはならないからです。
社会的支援に向けての言説が強まったことの背景には、いろいろな事情があると思いますが、発達障害の診断数が急増していることと、吃音の社会的支援の議論の高まりには、根っこに同じような社会不安が通底しているようにも感じられます。また、近年、日本人の「コミュニケーション」、あるいは「コミュニケーション能力」と呼ばれるものについての規範意識の変化が、吃音者に与えている影響も大きいように感じます。
あず  恋愛とは、コミュニケーションの究極の形だと思いますが、恋愛をする中で、『話し言葉についての規範と逸脱』に関して、何か吃音と関連して経験したことは、ありますか?
いんこ 恋愛と吃音というのは、大変面白いテーマです。熊谷先生は、リハビリの体験の中で感じられたマゾヒスティックな快感を「官能の敗北」と『リハビリの夜』の中で書かれていますが、「話し言葉の規範の強制」と「そこからの逸脱」の中で感じる、マゾヒスティックな快感は僕の中にもあるような気がします。
先日、イギリスに留学しました。僕、英語では、日本語以上に、ものすごくどもるんですが、そのとき、ものすごくおっとりと話す綺麗な女性とお話をしたんですね。どもりながら、必死に、英語で「僕、吃音なんです」っと説明したら、「あ~大丈夫よ~私、そういうのね、ぜ~んぜん、気にしないから~」と英語、ゆっくりと、おっとりと話してくれるんですね。1対1の会話の中で、僕の吃音は、とても目立つし、とても美しい女性だったので、ぼくもどぎまぎしてしまう。どぎまぎすればするほど、余計にどもってしまいました。でも、どもるけど、その女性と何とか話したいから、必死になります。でも、必死になるほど、余計にどもる。彼女はそんな僕の話し方を全部受け入れてくれて、吃音のことなんかぜんぜん気にせず、おっとりと、話してくれるんです。そのときの僕の「どもり」には、僕の緊張や興奮のようなものも含まれていたと思うのですが、それを優しく無視される中で、「放置プレイ」を受けているような、得体の知れない快感を覚えました。
吃音と恋愛については、マゾヒズム以外にも、いろいろな語り方ができると思います。今回、運営メンバーで当事者研究する中で、吃音の経験を、恋愛と結び付けて語れるようになりました。ネタが増えたのは、収穫でしたね。

 

「こじらせ東大生の恋愛相談会」

11月24日金曜日、10:00〜18:00、東京大学駒場キャンパスコムシーWEST303教室にて開催いたします。奮ってご参加ください。

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