「コミュ力」って何?

(文責:いんこ)

11月上旬、いんこ、すぱいす、わいわいたろーの3人で、「コミュ力って何?」をテーマに座談会を行いました。
以下の文章は、当日録音した音声テープを元に、いんこが文字お越しをし、メンバーで加筆・修正を加えたものです。

●「コミュ障」という言葉
いんこ 「コミュ障」って言葉は、使います?
わいわい あまり使わないようにしています。というのは、「コミュ障」というフレーズで逃げてしまうのが嫌だな、みたいな感じがあるんです。スベったときに、とりあえず空気を読んで丸くおさめなきゃいけない、みたいな状況があるじゃないですか。そういうときに、「ごめん、俺、コミュ障だから~」みたいに言うのって、逃げていると思うんですよね。自分のコミュニケーション力と向き合えていないというか。
いんこ 「コミュ障」って、そういう風につかいますよね。「あいつ、コミュ障だろ」みたいに陰口として使うこともあると思いますけど、「おれ、コミュ障だから」みたいに、「言い訳」みたいな感じで使うことが多い言葉ですよね。
すぱいす 僕は、自分で、「俺はコミュ障だ」と言うようなことは、あまりないですね。「コミュ障かどうか」って、相手によってぜんぜん違ってくると思うんですよ。
いんこ 「俺、コミュ障だな」と感じてしまうことは、全くないですか?
すぱいす 今は、やめちゃったんですけど、少し前まで、スタバで働いていたんです。スタバの店員って、「コミュ強」であることが、求められると思うんですよね。お客さんとも話すことは多いですし。店員の中に、僕から見て、「いかにも『コミュ強』」みたいな人がいたんですね。どんな人が相手でも、スタバの店員らしく話しかけられる人なんですが。一方、僕は、話しかけやすい人と、そうじゃない人がいました。常連さんとか、アラサーとかアラフォーぐらいの女性には話しやすかったけど、話しかけにくかった人もいたんですね。
コミュニケーションって、そもそも、自分だけじゃなくて、相手の存在があるのを前提にしてのものだとおもうので、一概に、「コミュ障かどうか」を、自分自身の問題として、持ち出すことってあんまりないかな、という気がします。
いんこ 「コミュニケーションは、個人の能力ではない」、という考え方は、『発達障害当事者研究』で綾屋先生が主張されていることに近いですね。でも、にも関わらず、「コミュ障」とか「コミュ強」だと呼ばれる人がいるのって、何でなんでしょうね。

●「コミュ強・コミュ障」問題に、影響を与えている要素
いんこ 今の話、聞いていて面白いと思いまして、「スタバにおける『コミュ強』」の人とは、「どんな人に対しても、スタバの店員らしく振舞える人」っていうことなんでしょうかね。
すぱいす 「スタバに何を求めてくるのか」って、お客さんによって違うと思うんです。僕自身は「そんなに積極的に言葉でコミュニケーションを取らないでもいいかな」という感じだったんですね。お客さんの雰囲気も見つつ、みたいな。スタバらしさみたいなものを最低限示せたら、言語的なコミュニケーションは、もういいんじゃないかな、という感覚が、僕の中にはあったのかもしれません。
僕は、笑顔とか、言葉の声色とか、やわらかさとか、アイコンタクトとか、そういう部分のコミュニケーションを重視するタイプでした。
いんこ 言語的な部分でのコミュニケーションよりも、言語以外の部分におけるコミュニケーションの方を重視されていたんですね。
すぱいす まあ、僕個人の話ですけど。
いんこ すぱいすさんの話から、僕たちが漠然と抱いている『コミュ強』の特徴が二点くらい、出てきたような気がします。つまり、「誰に対しても同じように『らしく』ふるまえるのが『コミュ強』っぽい」という点。それから、「言語的なコミュニケーションが達者なのが『コミュ強』っぽい」という点ですね。他には、『コミュ強』っぽい特徴って、どんなものがあるでしょうか。
わいわい 僕、しょっちゅう、行くバーがあるんですが、そこの空間だと、どんな人と会っても、いろいろな人と話すことができるんですよね。普段だったら怖くて話しかけられないような人でも、そこに行くと、話すことができるんです。だから、雰囲気とか、そういう問題もとても大きいのかな、と思います。
いんこ 「場が『コミュ障』、『コミュ強』を左右する」という話ですね。新しい論点ですね。
吃音の話をすると、吃音者で、いつでも、どこでも、同じように吃るっていうことは、あんまりないんですね。歌とか、斉読とかで、吃音症状が出る人は少ないんです。人によって「いつ吃りやすいのか」っていうのに違いがありますし、同じ人でも時期によっても大きく変わりますが。
それから、「どもるか、どもらないか」とは別に、「話しやすいか、話しにくいか」という問題もあります。つまり、どもりながらでも話しやすいこともあるし、どもらないけど話しにくい、ということもあります。
今出た3つの論点は、どれも、吃音の出やすさや、話しやすさとも関係しているような気がします。誰と話しているか、という相手との関係性という点。言語的な部分や言語以外な部分のどちらのコミュニケーションを重視しているかという点。そして、場の問題ですね。

●「コミュ強」になるために必要な「センサー」
いんこ 話を元に戻しますが、どんな相手でも、どんな場でも、言語的に上手く話せる人が、「コミュ強」なんですかね。
すぱいす 相手の存在があってこその「コミュニケーション」と考えるのなら、「コミュ強」って、コミュニケーションに関して強者である、と言うよりは、発話において強者であるに過ぎない、と言う感じがします。
いんこ ちょっと違うかもしれませんが、僕、「いつどんな場合でも、うまく話せる人」って、「本当にコミュニケーションをしているのかよ」みたいに疑うことがあるんですね。誰に対しても優しい人とかよどみながら話せる人には、僕、不信感をいだくんです。普通だったら、いいよどんだりとか、どもったりとか、苦手な人がいるのが、人間、だいたいそういうことがあるのが当たり前だと思うんです。もちろんその苦手な幅が広かったり、狭かったり、という問題はあると思いますが。そういうのが全くなさそうに振舞える人って、何かを無視しているような気がするんですよ。だから、むしろ、僕は、「いつでもどこでも、どもらずに話せるような「コミュ強」にはなりたくない」と思っている節があるような気がします。どもったり、うまく話せないことに、むしろ有意味性を見出しているというか。ニヒリズムにも似た、ややナルシスト的な自己肯定感と表裏一体の「こじらせ」だと思いますが。でも、そういう考えを持っている僕から見たら、「誰に対してもスラスラ話せる人」って、「ちゃんとコミュニケーションをしている」とは映らないんですよね。
わいわい 「よくしゃべる人」と「コミュ強」とが必ずしも一致しないっていうこともあるじゃないですか。どんな相手でも、どんな空間でも、「俺、こんなことしたんだぜ、わはは」みたいに話す人って、「コミュ強」とは、違いますよね。
「コミュニケーション力に長けた人」って、どっちかというと、たとえば、①ここではこういう枠で話せる②相手はこういう話をしたそう③この空間ならこういうことが話せる、みたいな複数の条件の重ね合わせの中から、自分が話したいことが話せる人、のような気がします。そこの空間の目的、相手が聞きたいこと、自分が話したいこと、の重なりをすぐに把握して、その期待にこたえながら、自由に話せる人、を、僕たちは「コミュ強」って呼んでいるんじゃないでしょうか。
いんこ それ、面白いですね。だとすると、いろんなセンサーがないといけないってことですよね。
すぱいす 「センサー」の数の多さと、一つ一つの「センサー」の感度が、「コミュ強」を定義しているような気がします。それ以外の要素も色々あると思いますが、「センサー」と言う言葉は、いいですね。
いんこ 「センサー」って、当事者研究っぽい言葉ですね。二村さんの「心の穴」みたいな。自己病名っぽいというか。
コミュニケーションにおいて必要だったり、関係したりしていそうな「センサー」を考えていきましょうか。
すぱいす 国語学専攻だからなのかもしれませんが、「語彙力」って重要な気がします。自分の内部にある思いを、言葉に変換する。変換のツールとしての「コミュ力」とか。高校の英作文の時間って、「難しい単語なんて使わなくていいんだ」みたいな指導があるじゃないですか。でも、語彙力とコミュニケーション力って、切り離せないような気がします。
いんこ おもしろい論点ですね。それ。
すぱいす いや、でも、よく考えたら、そうとも言えないのかなあ。子どもが、楽しそうにいつまでも話し続けているような場合、語彙力は乏しくても、それをもってして「乏しいコミュニケーションだ」とは見做しませんよね。自分がその時につかえる語彙力・ツールの中で、いかにそれをフル活用できるか、っていうのも、センサー的なものに関わってくるような気がするんですが。

●「モテ」と「コミュ力」
いんこ 二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』だと、モテるために重要なのは、自己受容できることと、適度に自信を持つことだよって、書かれていると思うんですね。モテない理由は、キモチワルイからで、キモチワルくなくなるためには、自己受容をして、適度に自信を持つことが大事だ、というロジックだと思うんです。「モテる」ことを、広い意味で「コミュ強である」と考えると、「キモチワルくないこと」とか、「適度な自信があること」とか「自己受容できていること」も、「コミュ強」になるためには、必要なことなんでしょうか。
わいわい 僕のとらえ方が間違っているかもしれませんが、自己受容を完全にするとコミュニケーションをする動機のようなものが、なくなってしまうような気がするんですね。誰かと話す理由の一つには「自分の中に足りないものがあるからしゃべりたい」ということがあるような気がします。相手のことを知りたいとか。それって、自己受容を100%できていたら、起こらない欲望のような気がするんですね。「相手のことを知らない」という自分の状態に満足してしまったら、しゃべろうと思わないじゃないですか。
「コミュ強」の人って、ナルシズムと自己受容のバランスがよく取れている人のような気がするんです。自分のことを一方的に話す人って、「コミュ強」とは呼びたくないですよね。
いんこ 自分の足りない部分をわかって欲しいと相手に一方的に押し付けている人は、コミュニケーションする動機はあるけど、相手に規範を押し付けているから、キモチワルイってことなのかな。
わいわい 自分のこともちゃんと話すし、ある程度人のことも聞ける人って、ナルシズムと自己受容のバランスが上手く取れている気がします。そういう人が「コミュ強」なのかな。
いんこ 一方通行なのは、上手なコミュニケーションとは言えない。適度な双方向的なやり取りが成立しているときに、ぼくたちは、コミュニケーションが上手にできていると感じるんでしょうかね。

・・・

・・・いかがでしたしょうか。
「コミュ強」についての謎は深まるばかりですが、僕たちが漠然と感じている「コミュ力」なるものや、「キモチイイコミュニケーション」の一端が少しだけ垣間見れたような気がします。
次回の座談会記事は、『こじらせ東大男子が恋バナはじめました』です。お楽しみに!

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